『空世界の残り香

作 ZING 


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 青年は公園のベンチにだらしなく座り、ぼんやりと空を眺めていた。あまりにも広く、あまりにも突き抜けていて、あまりにも美しい。青と白の絶妙なバランス。人間には作れない自然の純美(じゅんび)。

 最近この小さな公園が青年のお気に入りだった。特に今座っているベンチは最高にいい空を眺められる。あまり長い時間空を見ていると首が痛くなってしまうのが難点か。

 青年は一度視線を下げた。首をいたわるためである。

 そうすると青年の視界に妙な人物が映り込んだ。古びた服はどことなく廃墟を思い起こさせ、柔らかな微笑みは聖母を思い起こさせる――が、妙な人物は男性だった。

 目が合ってしまったので、頷くような小さい会釈をした。そうすると妙な人物は「座ってもいい?」と首をかしげながら言った。

「このベンチ、僕のベンチじゃないんだぜ」

 青年は投げやりな感じで片手を広げた。どうぞご自由に、という意味だったが、妙な人物には正確に伝わったらしい。

 妙な人物が青年の隣に優雅な動作で腰を下ろす。なぜだろう、身なりはあまりよくないのに、どことなく上品な感じがした。

「さて、ここで会ったのも何かの縁。僕は自称で空(くう)の人。君は?」
「何の人?」青年は聞こえていたけれど意味を理解できずに聞き返した。
「空(くう)。空っぽの空。君は?」
「え? ああ、えっと、僕は葵(あおい)。はじめまして」

 葵と名乗った青年は、なんだか変な人と出会ってしまったなぁ、と思った。しかし以前にもっと変な人(あるいは人ですらない)と出会っているので、さほど大きな衝撃はない。

 それにそのもっと変な人はいつだったか葵に言った。「約束された場所で、約束された二人が、約束された時間に出会う」とかそういう感じの言葉だったように葵は記憶している。だからきっとこの出会いも運命なのだろうと考えた。もちろん運命というのは前向きな意味で使っている。
「僕はいつからか空(くう)を伝導する旅をしているけど、この前少し変わった女性に出会ったんだ。聞きたいかい?」

「へぇ。それはぜひ聞きたいね」

 葵は本心からそう答えた。この空(くう)の人に変わっていると表現される女性に興味があったし、何よりも小説のネタになるかもしれないと思ったのだ。

 現在、葵はあの日の約束を果たすために小説家になる努力をしている。
 空(くう)の人は一度小さく頷いてから語った。

「ここからそう遠くはない場所にね、自殺の名所と言われている池があるんだけど、僕はそこに立ち寄った。池とか泉とか、そういうのは思い入れが強くてね。そこで出会った女性は天使と会って話をし、救われた。ちょうど、君が雪の精霊に救われたようにね」

「え?」

 葵は驚きのあまり固まってしまった。これじゃあまるで石像だ。

 しかしだれにも話していないはずのシャローム(もっと変な人の名前)との思い出を、なぜ初対面の男が知っているのだろうか。

 ある種の混乱。混沌というほどではないが、色々な考えが葵の頭の中をぐるぐると巡った。バカバカしい考えとしては――まさか僕はスパイされている? とか。もう少しまともな考えでは――シャロームの知り合いだろうか、とか。

「僕はある意味で、すでにこの世界を超越してしまっている。この世界というのは、君たちが幻想に幻想を重ねた、シガラミの多い世界のことだよ? 僕は全てのシガラミを捨て、あまりにも透明に――空(くう)となり、真理を体感している。そしてこれは最近気付いたことなのだけど、捨てるという表現よりは手放すという表現の方がいいように思うんだ」

「ちょっと待って。いや本当に、ごめん、ちょっと待って」
 葵は慌てて空(くう)の人の言葉を止める。何が何だか分からない、というのが正直な感想だった。

「いつまでも待つよ」空(くう)の人が空を見上げた。「今日も美しいね。空はいつだって澄んでいるのに、それに気付かない人たちがあまりにも多いとは思わないかい?」
「待ってないじゃんか」
「おっと、失礼。僕は問答が好きでね。色々と喋ってしまうのが癖みたいなものかな」
「ちょっと僕の方から質問させてくれない?」
「どうぞ」
「なぜシャロームのことを知ってるわけ?」

 それが一番知りたいことだった。他のことは葵にとっては大きな問題じゃない。空(くう)だとか幻想だとか、シガラミだとか。

「直接知っているわけではなくて、情報として知っているだけだよ。僕は真理を体感している。だから知ることができる。必要とあらば、ね。例えば君は、彼女を未来の自分だと知っていてもやっぱり好きだ、とか」

「ちょ、ちょっと、いやいや、ちょっと、そういうのはプライバシーの侵害だから」

「いや、空(くう)だよ。全ては空(くう)。あるいは空(くう)。気にしなくてはいけないことなど何もない。それに僕はその情報が必要だったから知り得たんだよ。この宇宙は完璧に機能している。間違いというものはそもそも存在していない。だから気にしなくてもいいよ」

 そうは言われても、葵は微妙に納得できなかった。が、とりあえず受け入れることにした。葵の特技は『受け入れること』なのだから。

「まぁ、世の中に不思議な人、あるいは人以外の、何者かがいる、ってのは僕も知ってるよ?」葵は考えながらゆっくりと喋った。「それがつまりシャロームのことなんだけど、えっと、空(くう)の人だっけ? あなたもつまり、そういう感じの人って認識でオーケー? 雪の精霊ではなさそうだけど」

「僕はだれでもない。だから空(くう)の人。僕が空(くう)を手に入れてから実に二年の月日が流れた。その緩やかな流れの中で、僕はそれなりに成長し、もはや肉体さえも必要としない段階に差し掛かっている。だからそう、雪の精霊ではないけれど、そういう感じの一歩手前という認識でいい。とりあえずはね」

「ふぅん......」

 世界は面白いな、と葵は思った。タイムトラベルをしてみたり、シャロームと出会ったり、空(くう)の人と出会ったり。なぜこんなにも楽しい世界と決別したいと思ったのだろう。いや、あの時はそうだったのだ。仕方がない。あの時の葵には絶望の歌しか聞こえなかったのだから。

「僕は完全に肉体を手放す前に、どうしても会いたい人がいるんだ。それが唯一の執着となっている。つまり完全なる空(くう)だと思っていた僕はまだほんの少しだけ空(くう)じゃなかった。だから僕はその人――泉の女神様なのだけど、彼女と会い、最後の執着を彼女の泉で溶かしてもらいたいと思っている。この後、僕はその泉に行こうと、いや、戻ろうと思う。そして葵君、君は僕が空(くう)を伝える最後の人間なんだよ。さぁ、君は天使に救われた彼女と違って、すでに空になる方法を知っている。だからここで、シャロームに会うといい。そして新しい情報をもらえば、君はまた進むことができる」

「空になる方法って?」
 葵には心当たりがない。そもそも空という言葉自体、あまり聞いた覚えがない。

「君がいつもやっていることだよ。ぼんやりと空を見上げて、だんだんと意識のレベルが上がり、あるいは全てが幻想のように思え、物質的なものはいつかどこかで消えてしまうと思い出す――つまり、君がいつもやっていることだよね?」

 葵は首をひねった。そこまで深く考えているわけではない。ただここから見上げる空があまりにも澄んでいるから、ぼんやりと眺めているだけだ。

「それを今からまたやればいい。今回は僕が手伝うから、すぐにシャロームに会えるだろう。もちろん、選ぶのは君だから、無理にとは言わない。僕は誰かに何かを無理強いしたりしない。だから選ぶのは君。さぁ、どうする?」

 空の人はとても優しく微笑んだ。温かい笑顔、とでも表現すればいいだろうか。なんだか体が――あるいは心が――ポカポカするような、そんな感覚。

「やってみる」
 空の人の言葉は少し難しいけれど、シャロームに会えるかもしれないのなら、やってみる価値はある。葵はいつだってシャロームに会いたいと願っていた。彼女が常に自分を見守ってくれていると頭では理解しているけれど、やっぱり実際に会ってお喋りしたり触れ合ったりしたかった。
     ※     ※    ※

 世界が唐突に色を失った。もしかしたら、世界は最初から最後まで空白なのかもしれない。

 人間はよく生きる意味を問う。けれど意味などないのだ。この世界は空だ。それは空っぽで虚しいというわけではない。透明な世界だからこそ、自分で好きな色を塗れるのだ。そう、自分は望みさえすれば何者にでもなれる。それが葵たちの生きているこの世界の姿なのだ。不意に、葵はそう理解した。いや、空の人に理解させてもらったのだ。

 ならば僕はこの透明な世界の中に、光の粒を落とそう――心中でそう呟く。
 刹那。
 世界が色づき始める。
 光だけが穏やかに広がった。
 自分の体が消えて意識だけが機能する。
 ああ、あの時の、感覚だ――懐かしさに心が震えた。
 光の中に光の粒が舞う。
 そして歌が始まった。その歌はとても澄んだ声で紡がれ、葵は振動する水晶を思い出した。
 葵はその歌声に合わせて一緒に歌った。知っている曲、知らない曲。全部歌った。
「久しぶり」
 彼女の声が聞こえ、光の粒たちが一斉に葵を貫いた。
 目を瞑る。暗転。


「おっはー」
 シャロームはとても元気にそう挨拶した。

「昼下がりだけどね、実際は」
 葵は答えながら状況を確認する。木造のコテージのような部屋で、葵はそのベッドに座っている。向かい合う形でシャロームが椅子に腰掛け、その背後には暖炉がある。天井からは裸の電球が一つだけ吊されている。懐かしの『シャロームの別荘』だ。

「時間なんて幻よ」
「そうかもしれないね」
「かもしれない、じゃなくて実際にそうなのよ?」

 シャロームの髪の毛は相変わらず外に跳ねている。何かに挑むように。汚れの無いブラウンの瞳も相変わらずキラキラと眩しい。そして自称雪女だけあって、肌が白い。

「分かるよ。僕はタイムトラベルの経験者だから」片手を広げて葵が笑う。「ついでに空間も幻みたいだね。だって僕はさっきまで公園のベンチに居た」
「その通り」シャロームは嬉しそうに手を合わせた。「それはそうと、最近どう?」
「すごい、シャロームと世間話してるよ僕」葵は嬉しそうに笑う。「順調とは言いがたかったかな、さっきまでは」
「今は平気?」
「平気さ。なんだか色々なことを理解した気がするんだ。例えば、僕はまだ小説家になれていないけれど、どうすれば理想の自分を現実に投影できるか分かった」

 これは嘘でも虚勢でもない。空の人に導かれて世界の色を変えることができた。この限りなく透明な世界は、自分の望んだ色を加えることができるのだ。

「教えて」
 シャロームは少し前のめりになってそう言った。子供がお菓子をねだる時のようなポーズである。

「世界は透明なんだ。さっき会ったばかりの人が教えてくれた。その世界に、理想の色を落とせば良い。つまり――えっと、ちょっと説明難しいかも」

「それで正解。詳しくは私が......」こほん、とシャロームがわざとらしい咳払いをする。「世界はすでに存在している。パラレルなリアリティとして何億、何千億もの世界が重なって存在しているのね。だからその中で理想とする世界にフォーカスすれば、それで全てが変わる。つまり自分好みの色を選択する、ということね」

「それ、前回は教えてくれなかったよね?」
「今教えてるじゃない」
「まあ、そうだね」
 なんだか可笑しくて葵は少し笑った。

「必要な時に必要なだけ教えるのが基本なの」シャロームは右手の人差し指を立てる。「例えると、普通の人は小学生に量子論を教えないでしょ?」

 そりゃそうだ、と葵は思う。今の自分ですら量子論なんて意味不明なのに小学生に理解できるとは思えない。もちろん、この世界には例外というものも存在しているから全ての小学生に理解できないというわけでもないのだろうが。

「それでね」とシャロームが続ける。「今回の議題は、今後の葵君の動向について」
「僕の動向?」
「そう。私前に言ったと思うけど、ある女性と出会ってある冒険をするって」
「ああ、覚えてる。『精霊大戦の前夜』だっけ?」
 こくりとシャロームが頷く。
「あれ? じゃあもしかして――」
 さっき空の人が話してくれた少し変わった女性のことだったのだと葵は理解した。そういえばシャロームも以前、天使がどうのこうのと言っていた。

 何かが動き始めたのだ。

 またシャロームが頷く。
「これはあくまで情報で、どう使うかは葵君次第だけど、その女性の名前は映奈(えいな)。甲羅池で会えるから」
「甲羅池?」
 聞いたことのない名称だった。先ほど空の人が口にした自殺の名所だろうか。しかしどこにあるのか見当も付かない。
「大きな意志が葵君を導いてくれるから、必ずその場所に辿り着ける。もっとも、葵君がその気なら、だけどね」
 少し悪戯っ子みたいな笑みを浮かべるシャローム。
「僕はいつだってその気なんだぜ?」
「わー。ぱちぱちぱちぃ」
 とシャロームが拍手してくれた。葵は微妙に照れくさかった。

「それじゃあ、また会いましょう。男の子だった時の私」
「うん。また会おう。雪の精霊になった僕」
 シャロームは葵で、葵はシャローム。
 シャロームは葵の未来の姿で、葵はシャロームの過去の姿。
 未来と過去が同時に存在しているのだ。この世界はそういうことが可能な、どこまでも自由な世界なのだ。
 最後に葵はシャロームと握手して、目を瞑った。
 目を瞑ったら帰れるような気がしたからだ。

     ※     ※    ※

 いつもの公園。
 空が高い。とてもとても高い。だけど、手を伸ばせば全てを掴むことができる。

「ありがとう、空の人。ついでにさっき言ってた自殺の名所に僕を――」
 とさっきまで空の人が座っていた方に首を向けるが。

「って、あれ?」
 そこには誰もいなかった。最初から誰も座ってなどいなかったかのように、綺麗さっぱり消えていた。何の痕跡すら残っていない。

 さすがは人類超越一歩手前の人だ、と葵は両手を広げた。しかし池の場所を教えてから旅立ってくれても良かったのになぁ、と思った。
「なぁに、心配は無用だよ。君はすでに方法を知っているのだから」

 風が空の人の声を運んだ。

 ああそうか、まずは世界を透明にして、色を落とせばいいのだ。
 自分の望む、鮮やかな色を。






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