『凍る世界の心』 後編
作 ZING 


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 まだ前編を読んでいない人はまず前編を召し上がれ。


「そう。約束された時に約束された場所で約束された二人が出会った。メインディッシュに移る前に少し休憩しましょ。キャラメルマキアートを飲んでみない?」

 それがどういう飲物なのか僕は知らなかったけれど、だいだいの予想はできる。キャラメルの味がするんだ。きっと。そしてたぶん甘い。

「アイスとホット、どっちが好み?」シャロームは少女みたいに嬉しそうに揺れていた。たぶんキャラメルマキアートが好きなのだろう。

「アイスで」この部屋は暖かいから。

「でも氷は要らないよ」冷えすぎない程度に心を冷まそう。

 シャロームが右手の人差し指で一を示し、くるくると回した。そうすると僕の膝の上に小さなティーカップが出現した。とっさに零(こぼ)れるかもしれないと思って僕はそのカップを両手で支えた。僕のそんな姿を見てシャロームがクスクス笑った。シャロームの手の中にも同じティーカップが包まれていた。

「大丈夫よ、零れたりしないから」

「魔法みたいだ」と僕が言った。

「だって魔法だもの」とシャロームがまた笑った。

 僕はベッドの上に胡坐(あぐら)をかいて座り直した。それからキャラメルマキアートを一口飲んでみた。やっぱりキャラメルっぽい味がする。なんだろう、微かに懐かしい。だけど思ったよりは甘さ控え目だった。いや、十分に甘いけれど、僕の想像よりは控え目だったということ。

「そういえば、さっき僕の身体は二〇〇九年に居るって言ったよね?」

「言ったけど?」

「それって本当?」

「信じなくていい、とも言ったけど?」

「そうだったね」

 僕は肩を竦(すく)めてからキャラメルマキアートを飲みほした。意外と美味しい。結構ハマりそうな味だった。子供の頃に食べていたキャラメルを思い出した。もしも本当に僕が生きているなら、キャラメルを買いに行こうと思った。

「それじゃあ結末を変えましょう。これがメインディッシュよ」シャロームはティーカップを床に置き、続ける。「あなたの結末も世界の結末も含めて、ね」

「世界?」

 それってどの世界の事だろう。地球、という意味だとしたら、僕にはきっと何もできない。僕は僕の小さな現実でさえ、何の抵抗も示さず憂鬱(ゆううつ)の空へと溶けたのだ。もっと大きな世界なんて考えただけで目眩(めまい)がする。僕にはそんな力は無い。

「あなたには力がある。あなただけじゃなくて、人間には皆、力がある。それに気付いていないだけ。現実を捻じ曲げるなんて簡単なの。そもそもね、あなたが現実だと認識しているモノが本当に現実だとも限らないし。もう一度繰り返すけど、あなたには力がある。その力はあなた自身を含めて何もかもを変えられる。絶望の中に滅ぶのも、希望の先を進むのも、全部あなた次第。人間には固定観念があって、これが時として厄介なの。何もできないと決めつけている。これを入れ替えれば、だいたいの事はできるわけ」

「スプーンを曲げたり?」思い付きで言ってみた。

「一般的なスプーンなら、大人の腕力で曲げられるし、テコの原理を使えばだいたい誰でも曲げれるけれど、そうね、腕力もテコの原理も使わずそれを曲げることだって可能よ。つまりね、スプーンは固い、という観念をスプーンは案外柔らかいという新しい観念に置き換えるわけ。どう? 簡単でしょ?」

「言うのはね」

「プラシーボ効果みたいなものよ。偽(にせ)の薬でもそれを本物だと観念を定義して飲めば、病気も治る。病は気からってね。それが人間の力なわけ」

 プラシーボ効果については聞いたことがあった。つまり思い込みってことだ。確かにある程度の現実は思い込みで変わってくる。だけどそんなのはある程度、だ。根本的な世界は何も変わりはしない。

「あなたには夢があった」シャロームの口調はどこか感傷的だった。まるで昔を思い出している風に。「だけど成長する過程でその夢を置いてきた。だいたいの人がそうするようにね。あなたには夢を叶える力がある。そしてあなたの夢は世界を変える。だからこそこうして私と話をしている。あなたの夢について語って」

「語って、って言われてもな」

 確かに僕にはやりたいことがあって、なりたいモノがあって、憧れていた人達が居た。だけど大人は残酷なんだ。子供の頃に大きな夢を持てと言って散々僕を煽(あお)っておいて、少し年齢を重ねると今度はいつまでも夢なんか見るなと言う。現実的に生きろ、とかね。

 普通に勉強して普通の会社に普通に就職して有象無象(うぞうむぞう)に埋もれながら煙草を吸ってビールを飲んでいつか普通に結婚して普通に子供を育てて、そして僕も子供に同じことを言う。僕が忘れられない傷痕(きずあと)を僕の子供にも与えるのだ。正しいことだと妄信(もうしん)して。それこそがこの社会の現実じゃないか。そんな社会で、どうやって夢を追えばいいのだろう。一体誰が僕の味方をしてくれる?

 仕事をしろ、結婚しろ。それ以外を一体どこの誰が僕に言ってくれる? 夢を追いかけてもいいんだって、一体どこの誰が僕に言ってくれるんだ。何もかもを置き去りにするしかなかったじゃないか。そうやって溶け込み、受け入れ、諦め、何度も何度も沢山の物を放り捨てて。

 そうやって生きていけって誰もが望んだじゃないか!

「泣かないで」

 シャロームの声で、僕は自分が泣いていることに気付いた。

 僕は少しだけ恥ずかしく思いながら、左手で涙を擦(こす)った。

 例えこれが最後の夢の欠片だったとしても、二九歳にもなって人前で泣いたことに驚いた。驚いたらまた涙が溢れてきた。

「ごめん」僕は両手で涙を拭きながら言った。

「あなたは優しいから、ずっとそうして生きてきた。他の人達に合わせて、他の人達と同じように」

 シャロームは立ち上がり、僕の頭を撫でてくれた。僕は子供に戻ったみたくもう一度泣いた。
「もういいんだよ」シャロームの笑顔。僕の頭を撫でるしなやかな手。どれも優しかった。「あなたはあなたとして生きていいの。ねぇ、味方は沢山居る。本当よ。それにね、私はずっとずっとあなたの味方だったじゃない」

 ずっとずっと。

 ずっとずっと。

 僕は唐突(とうとつ)に思い出した。

 僕は幼い頃にも一度、シャロームに会っている。夢みたいな出来事で、きっと誰も信じてくれなくて、だから忘れたんだ。記憶の海の底に沈めて。


************************


 僕は車に撥(は)ねられたことがあった。その時僕の意識は僕の身体から遊離(ゆうり)して運ばれる僕をずっと追いかけていた。僕は死ぬんだな、って思った時に彼女が僕に声をかけてくれたんだ。

「大丈夫だよ」と彼女は言った。長い黒髪で、サイドの髪の毛は外に向かって跳ねていた。何かを主張するみたいに跳ねていたのだ。

「誰?」と僕は聞いた。

「誰でもない」と彼女は答えた。

 それから僕は彼女と空を旅したんだ。地球の裏側にだって行ったんだ。それからそう、雪山にも。

 それがどこなのか僕には分からなかったけれど、寒さは少しだって感じなかった。きっと肉体とは違うからだとなんとはなしに思った。

「また私に会いたい?」

 僕は頷いた。名前も知らない彼女に、僕は惹(ひ)かれていた。とても明るくて、大人なのに時々子供みたいな仕草をするんだ。僕は彼女のことをとても好きになった。

「それじゃあまたここで会いましょ」彼女は僕の手を握ってくれた。とても暖かかった。「本当はね、今日ここで会うことも、ずっと昔に約束されていたの。覚えてないでしょうけど。さぁ、そろそろ戻りましょう。あなたの家族があなたを心配しているから」

 僕はまだ戻りたくないと言った。もっと彼女と居たかった。

「でも戻らなくちゃね。あなたの世界はここじゃない。あなたはあなたの世界を生きなきゃいけない。それはあなたが選んだこと。大丈夫、心配しないで。私はずっとずっとあなたを見守っているし、あなたの夢がいつか世界を救うと知っているから」

「僕の夢?」

「そう。あなたの夢。素敵な夢よ。大切にして。忘れないで。いつまでも物語を綴(つづ)って」
「分かった。いつか夢を叶えたら、またここで」僕はきっと無邪気にそう答えた。僕にもそんな時期があった。

 僕は本が好きだった。読むのも大好きだったけれど、書くのはもっと好きだった。だからそう、将来は小説家になりたいって思った。沢山の文章を沢山の思いを込めて、沢山の人達へ。そんな夢を見ていたんだ。

 彼女に連れられて僕は僕の眠る病院へと戻った。

「お姉さんの名前は?」僕はバイバイする前にそう聞いた。

「名前が必要?」

 僕は少し首を捻って考えた。

「無くてもいいよ。髪の毛が跳ねてるお姉さん、またね」

 僕は手を振った。

「忘れないで、私の事。ずっとずっと応援してるからね」

 僕は随分(ずいぶん)と大人になってしまった。

 僕は随分と変わってしまった。

 僕は夢を叶えぬまま彼女と再会した。


************************


「ごめん」僕はもう一度謝った。

「いいの。気にしないで」シャロームの手が僕の頬に触れる。やっぱり暖かかった。「あなたはまだ、歩めるのだから」

「僕の夢は今でも、世界を救える?」

 シャロームは力強く頷いた。僕は救われた気がした。

 深い傷痕が、僕の中で消えていくのを感じた。僕の頬に触れるシャロームの手に、僕の手を重ねた。

「でも僕は」シャロームの瞳の中に僕の姿が映っていた。そうやってずっと、シャロームは僕を見ていてくれた。僕は忘れていたのに。「でも僕は死んでしまった」

「いいえ」シャロームが首を振る。「言ったでしょう? あなたは二〇〇九年に居る。あなたは意識だけで旅をした。絶望的な未来を彷徨(さまよ)って、約束通りここに来てくれた。戻らなくちゃね。あなたの生きる世界はここじゃない」

「僕は死んでいない?」

「今日、あなたの精神を蝕(むしば)んでいた傷痕は死んだ。言ったでしょ、ある意味死ぬって」
 ああそうか、あの光の粒達はシャロームの姿なんだ。僕と一緒に歌ったり踊ったりしていたのはシャロームだったんだ。

「でもあなたの肉体は元気よ。今日、あなたに会えて本当に良かった。デザートに移る?」

「あんまり美味しいと、また泣くかもしれない」僕はジョークを言った。「デザートの前に、僕の夢を語るよ。まだ語ってないよね。僕は物語を作りたかったんだ。文章、って形で。一文字一文字に思いを込めて、僕にしか作れない物語をずっと作りたいと思ってた。それで、いくつかの長編小説と短編小説を書いたけれど、誰にも認めてもらえなかった。僕はいつしか諦めて、僕はいつしか普通の輪の中に収まって、最後まで抵抗しなかったんだ。ずっとずっと書き続けることができなかったんだ。僕が生きているのなら、僕が戻れるのなら、僕はまた小説を書くよ」

「精霊大戦の前夜」シャロームが笑う。

「何が?」

「最初に書く長編のタイトル。この惑星上で最も強い力を持つ精霊の話なんてどう?」

 僕は吹き出した。「何それ」本当に可笑しかったんだ。「でも悪くないよ。シャロームみたいに心優しい精霊にするよ」

 シャロームが嬉しそうに左右に揺れた。手はまだ僕の頬。僕の手は、シャロームの手に重なっている。たぶん僕達の心も、重なっている。

「でもその前に」僕は重ねた手を握った。頬からシャロームの体温が消え、僕の手の中へ。「僕はシャロームの話を書きたい。世界を救うには、もってこいだ。そうだね、書き出しは」

「これはきっと夢だった」シャロームが自由な方の手を握り、人差し指だけを上げてその先で僕の額に触れた。

「僕は凍えそうな世界で優しい夢を見た」僕はシャロームの真似をして指先でシャロームの額に触れた。

「素敵なフレーズ」シャロームが微笑んだ。

 雪女って、天使みたいだと思った。いつか天使に会った人の話なんかも書いてみたい。僕がシャロームに救われたように、主人公は天使に救われるんだ。

「あ、分かった」天啓(てんけい)の如く僕の思考に一つの結論が導き出された。「シャロームは雪の精霊だね? だから雪女なんだ。シャロームは精霊で、本当は光の粒なんだ」

「デザートの一部ね。オッケイ、このままデザートに移っていい? それとももう少しロマンスを続ける?」

 シャロームは繋いだ手を一瞥(いちべつ)して微笑んだ。

「ロマンスを続けながらデザートに移ろう」と僕は言った。

「デザートを食べちゃうともうロマンスを楽しもうって気にはならないかもよ?」

「構わない。受け入れるのは僕の特技だから。シャロームが実は宇宙人だったとしてもアメーバだったとしても構わないよ」

「私は雪の精霊、雪女」シャロームもベッドに上がってきて胡坐をかいた。

「もう少し可愛らしく座れない?」と僕はからかった。

「淑(しと)やかさや華(はな)やかさが必要?」

 僕は少しだけ首を捻って考えた。

「無くていいよ。髪の毛が外に跳ねてるお姉さん」いつかの台詞を繰り返した。

 僕の答えを聞いてから、シャロームがゆっくりと語り始めた。

「私はあなたの未来。ずっとずっと未来のあなた。何度も何度も転生を繰り返して雪の精霊になったあなたの姿よ。つまりあなたは私の過去なの」

「SFみたいだけど、未来と過去が一緒に居るのって変じゃない?」

「少しも変じゃない。未来、過去、現在、それらは全て同じ場所に存在している。焦点を合わせるのに少しコツがいるだけ。私がまだあなただった頃、私と会って本を書いた。その本が世界を救うのに役立つ。言ったでしょ、世界を救うと知っている、って。自分の体験だもの。ちなみにキャラメルマキアートが好きになったのも私があなただった頃に私に勧められたからよ」

「頭が混乱しそうだけど、つまり僕は僕と手を繋いでロマンスを演じていたわけだね?」それでも僕はシャロームと手を繋いだままだった。

「そう。ね、私とのロマンスは終わったでしょ? でも心配しないで。あなたは天使に救われた女性と出会って一緒に精霊大戦の前夜を体験するから」

「天使に救われた女性?」僕が書こうと思った物語だ。

「私の記憶と感応したのね。その精霊大戦の前夜を、あなたが書く。それが最も重要な物語になる」

「質問だけど、まずその女性は僕の何?」

「それはあなた次第。ねぇ、私はあなたとしての人生を歩んだけれど、あなたは私とまったく同じに生きる必要は無いの。言ったでしょ、あなたはあなたとして生きてもいいんだって」

「でもその、精霊戦争の夜は体験するんだよね?」

「精霊大戦の前夜」とシャロームが訂正した。「あなたさえよければね。あなたには力がある。全部自分で決めていいの」

 よく分からなかったけれど、僕はそれを受け入れた。諦めたのとは違う。僕はシャロームを信じている。そして自分自身も、信じられそうだったから。

 僕が将来シャロームになるなんて、とても素敵なことだ。僕は誰かを救える。僕は将来僕自身を救って、そして世界も。

「どんな決断をしても、忘れないでね」

 シャロームが微笑んだ。まるで、本当に純真で、本気で世界を救えると思っていて、そしてそれはほんの少しの汚れだって無い。綺麗な瞳とよく澄んだ声で。

「私はずっとずっとあなたを応援してる。だってほら、私はあなただから」


************************


 僕は二〇〇九年の三月、つまり僕の生きるべき世界に戻ってから早速シャロームの物語を綴(つづ)ろうと思った。

 けれどその前に、キャラメルとキャラメルマキアートを買った。

 次に僕はシャロームという言葉の意味を調べてみた。ヘブライ語だった。

 彼女に相応しく。

 あの別荘の雰囲気そのもの。

 そんな素敵な意味だった。


 了







シャローム
とは
平和を意味する。





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