『凍る世界の心』 前編
作 ZING 


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 僕は凍えそうな世界で優しい夢を見た。

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 夢。そう、これはきっと夢だった。あまりにも平和だったから。

 僕を取り巻く現実はいつだって冷酷だった。派遣社員としてずっと工場に勤務していた僕は二〇〇九年の一月に解雇された。アメリカ発の世界恐慌の始まりだった。

 そこから世界は歪みねじ曲がって戦争に戦争を重ねて少しずつ壊れた。人の心は少しずつ氷になった。

 僕には何も無い。僕には何もできない。

 悲惨(ひさん)な現実だけが映画みたいに延々と続いた。この星はきっと終わってしまうんだって僕は感じた。きっと誰もがそう感じたと思う。いや、誰もがそう感じたと思い込んでいた。

 二〇一二年一二月二四日。僕が雪山で遭難した日だ。まずどうして僕が雪山に居たのか、ということから話さなければならない。

 とはいえ、それは特に重大な理由ではない。簡単に言おう。死にたかったんだ。

 絶望に絶望を重ねて、いつしか生きる意味を見失った。そうでないとしたら、生きる意味なんて最初から僕には無かったのだ。それに気付いてしまっただけなのかもしれない。

 僕は地元から遠く離れた北国の山を死に場所に選んだ。僕は昔から山が好きだった。平凡な人生を歩んできた僕にとっての唯一の趣味が登山だった。地元の山はだいたい制覇した。石(いし)鎚(づち)山にはもう五回は登っただろう。人生で五回なんて少ないと思うかもしれないけれど、僕を待っている山は何も石鎚山だけではなかったのだ。

 とにかく、僕は一箱の煙草とターボライタだけをポケットに突っ込んで見知らぬ雪山を登り始めた。なるべく頂上まで行こうと思ったけれど、ほとんどの装備は僕の家の僕の部屋の僕のクローゼットの中で眠っている。だからまぁ、命ある限り登ろうと思った。空に近い場所で死ねたら天国なんて場所に行けそうな、そんな気がしたから。もちろん気がしただけだ。そんな前例は無い。

 僕は色々なことを思い出した。子供の頃に見た意味不明だけど面白かった夢だとか、読んだ小説のフレーズだとか。数少ない友人たちの顔や、元恋人達の身体。元恋人達に関しては、何故か顔が思い出せなかった。きっと思い出す必要がなかったのだろう。

 僕に恐れは無かった。

 僕に不安は無かった。

 ただ、寒かった。装備は置いてきたといっても、手袋とウェアとニット帽、それからブーツぐらいは装備している。途中で吹雪だした時にゴーグルも持ってきたら良かったと後悔はした。けれど全てが今更すぎた。

 吹雪で方向感覚を失っても尚、僕は進んだ。身体が切り裂かれているのかと錯覚しそうな寒さだった。心が引き剥がされるくらいに冷たかった。これが死への道なのだとなんとはなしに考えた。

 僕は倒れた。体力も気力もそこで仕舞いだったから。そこがどこかは分からないけれど、きっと僕の場所なんだと思った。

 これでいい。意識がぼんやりとして、もう寒さも感じなかった。僕は思い描いた場所で死ねる。頂上かどうかは知らないけれど、まぁだいたい満足だ。

 暖かかった。

 本当に、暖かかった。

 僕はもう冷酷に身悶(みもだ)える必要も無く。

 壊れ始めた世界を憂(うれ)う必要も無く。

 氷に似た心を溶かす必要だって無い。

 勝手に滅んでしまえばいい。僕の居なくなった後で熱核兵器だか何だかでいつまでも殺し合えばいい。たぶん映画みたいなハッピーエンドは迎えられないだろうけど。

 それは人類の選んだ道だ。自業自得。

 そして僕は、今日、死ぬことを選んだ。

「煙草吸いたいなぁ」最後に僕が発した台詞だ。

 まったく気の利かない陳腐(ちんぷ)な台詞。僕の人生なんてのは所詮そんな程度なのだ。

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 僕は光の中を彷徨(さまよ)っていた。そこには何も無いけれど、きっと全てが在(あ)った。

 僕に身体は無いけれど、意識だけは緩やかに機能していた。これが死ぬことなのかな、って考えた。案外楽ちんだった。もしかしたら魂なのかもしれない。もっとも、僕の記憶が確かなら、魂の存在なんて今までの人生では一度だって感じたことも無かったのだけど。

 光の中に光の粒がいくつも舞っていた。歌うみたいに軽やかに。

 いや、実際に歌っている。僕には歌が聴こえる。女の子の声だ。光の粒達の声。とても澄んだ声で、僕に振動する水晶を思い起こさせた。

 僕はしばらくその歌に流された。きっと流されたのは心だ。

「一緒に歌ってみない?」光の粒が言った。きっと僕に言ったのだ。

 僕は頷きたかったけれど、体が無いことを思い出した。だからきっと声も出ないと思った。だから僕は意識だけで「どうやって?」と質問した。

「ただ歌えばいい」

 光の粒が答えてくれた。どうやら意思の疎通(そつう)は可能らしい。

 僕は何も面倒臭いことを考えずにただ歌ってみた。知ってる曲は片っぱしから歌った。

 僕の声は空間を縦横無尽(じゅうおうむじん)に駆け巡り、光の粒達が一斉に踊り始めた。踊りながら時々僕と一緒に歌った。きっと光の粒にも知っている曲と知らない曲があるのだろう。

 たぶんここは天国なのだろうと思った。だからきっと光の粒は魂達で、僕も光の粒になっているのだ。きっと。

 不思議だったのは、どうして僕が天国に来られたのか、という点。僕はあまり善良な人間ではなかった。まぁ、別段悪人だったというわけでもないだろうけど。僕程度で天国に招かれるならだいたいの人間は天国行きだな、なんて意識の片隅で考えた。

 僕は生前、ただ無気力に流されるままになんとなく、そして退屈なくらい平凡な人生を歩んだ。無関心、ってことだ。何もかもに。だから世界が間違った方向へ進んでいても僕は何もしなかった。だいたい、僕個人に一体何ができたというのだろう。

「何でもできたはずよ」

 光の粒達は踊るのを止めた。だから僕も歌うのを止めて次の言葉を待った。何でもできた、の意味を知りたいと思ったからだ。

「知りたい?」光の粒達が微笑んだ風に見えた。顔なんて無いのに、どうしてだかそんな風に見えた。「いいわ。それじゃあちょっと起きてみて」

「起きる?」僕は死んだ。起きる、という意味が理解できなかった。「僕は死んだと思ったけど?」

「もうすぐ死ぬのよ、ある意味ね」光の粒達が僕の周囲に集まり、ふわふわ揺れ始めた。「起きるのは簡単。手伝ってあげる」

 揺れていた光の粒達は次々に僕に体当たりを開始した。僕は驚いて目を瞑(つむ)った。厳密には目なんて無いのだけど、まぁ感覚的に。だけど実際、目を瞑ったみたいに空間は真っ暗になった。

 また驚いて、今度は目を開く。そんなイメージ。

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「おはよう」

 誰かが言った。よく通る声だ。語る為の声。あるいは歌う為の声だった。何かを伝える為の、心に届ける為のボイス。僕の声は、生前誰かの心に届いたのだろうか。

 声の主は長い黒髪の女の子で、サイドの髪の毛は外に向かって跳ねていた。まるで何かに抵抗するみたいだと思った。たぶん、冷たい壁に弱さを見せないような、そんな負けない為の抵抗。思えば僕の人生はずっと負けっぱなしだった。抵抗を試みなかった結果だ。

 彼女のブラウンの瞳は吸いこまれそうなくらい深く、そして綺麗だった。僕の瞳はずっと濁っていたと思う。切実な現実に淀(よど)み、混ざり、そして虚(うつ)ろだった。優しさなんてどこにも残っていない――きっと人類より一足先に滅亡してしまったのだ。そんな冷たい瞳だったと思う。悲しいことだ。生きている時はそれが普遍的だと思っていたけれど。

 彼女の肌は白かったけれど、血行は悪くなさそうだ。煙草も酒も夜更かしもきっとしないのだろう。僕は付き合いで酒を飲み、精神を安定させる為に煙草を吸い、あまりにも無為だったから眠れなかった。でも、だいたい皆そんな感じだった。

「シャロームの別荘へようこそ」

 彼女は目を瞑って微笑んだ。大人にも見えるし、少女にも見える。簡単に言えば年齢不詳というわけだ。まぁ、間違いなく僕よりは若いだろうけど。

「シャローム?」呟き、僕は自分がベッドに寝かされているとやっとで気付いた。毛布と掛け布団をはぐって僕は上半身を起こした。「君の名前? それともこの別荘とやらの名前?」

 彼女は首を傾(かし)げ、しばらく考え込むような素振りを見せた。僕は黙って彼女の回答を待つことにした。待っている間に自分の状況を把握しようとしたけれど、どうにも無理そうだったので諦めた。人生は諦めが肝心だ。僕が二九年の人生で学んだ処世術(しょせいじゅつ)。わりと役に立つ。

「えっと、私をそう呼びたかったらそう呼んでもいいし、この場所をそう呼びたかったらそれもいいし、要はどっちでもいいってこと」

「君が言ったんだよ?」僕は吹き出してしまった。「オッケイ。君の事、シャロームって呼ぶよ」

「私に名前が必要なら」

「誰にだって名前は必要だよ」僕の知る限り、名前の無い人は居ない。「でもどう見たって日本人の君をシャロームって呼ぶのは少しだけ違和感があるけどね」

 シャロームはまた少し考えるみたいに右手で自分の顎(あご)に触った。それから五秒ばっかし沈黙し、いきなり両手を叩いた。

「名前に関しては、別に何だっていいよ。日本人的な名前が好みなら勝手に付けちゃえばいいし。でも私、人類ですらないけど?」

「はい?」僕は最初何を言っているのか理解できなかったけれど、シャロームなりのジョークだろうと結論した。笑った方が良いかな、とも思ったけれどちょっと今更過ぎるので止めておいた。

 シャロームは微笑んでいるだけでそれ以上は語らなかった。

 僕は自分の居る場所を把握しようと、ぐるりと見回した。木造のコテージ風の部屋で、たぶん六畳よりは広いだろうけど正確には分からない。僕の部屋は六畳だったので、六畳の広さはだいたい分かるけど、それ以外はさっぱりだ。

 それほど高くもない天井から一つだけ裸の電球が吊るされている。けれど光の量は十分だ。明る過ぎると言ってもいいくらい。その電球は僕に光の粒達を思い出させた。

 普遍的な木の椅子に座るシャロームの背後には暖炉があって、炎が踊るみたいに揺らめいていた。暖かさも十分。暖炉の炎が続く限り、凍死はしないだろう。

 窓はベッドの頭側に一つだけ。少し薄暗かったけれど、牡丹雪がのんびりと降っているのが見えた。ゆっくり、自分の美しさを沢山の人に見てもらえるように。そんな気がした。

 部屋の中を一通り見回したけれど、僕は何も把握できなかった。人生は諦めが肝心だ。流れに身を任せよう。ここはシャロームの別荘で、それ以外の何でもない。そう思い込めばいい。僕はそうやって色々な物を受け入れて生きてきた。いや、押し潰して生きてきたのかな。

 僕は再びシャロームに視線を合わせた。

「物質的な物はあまり無いけど、結構いい所でしょ?」

「それがいい所だね。この部屋の」僕は微笑んだ。何も無いってことは何にも悩まされないってことだ。

「さて、メインディッシュの前にはオードブルが必要だと私は思うのね」

「ついでにスープもあれば最高」

「つまり予備知識的なものね」シャロームは僕のジョークを無視した。というよりもジョークそのものを理解できなかったのかもしれない。「まずは私の正体から話そうと思うのだけど、問題ない? オッケイ? ナプキンは必要?」

「ナイフとフォークもね」どうやら理解していたらしいので僕はまたジョークで返した。ユーモアのある女の子は基本的に好きだ。特に可愛い子は。

「一番分かりやすく言うよ? 厳密に正解ってわけじゃないけど、うん、分かりやすいと思う」とシャロームは前置きした。「私はたぶん雪女です」

 なかなか面白いジョークだ。けれど、実際にシャロームが雪女だったとしても少しの問題も無い。何故なら僕はもう死んでいるし、光の粒と歌ったり踊ったりしているし、諦めて受け入れるのは特技だからだ。

 どう反応するべきか思い悩んでいると、シャロームが立ち上がり、左手で僕の右頬に触れた。

 雪女だからきっと肌は冷たいのだろう。

 だけど予想に反してシャロームの肌は暖かかった。体温は三六度丁度だな。直感だけど。

「えっと」また僕は反応に困ってしまった。

 シャロームは軽く微笑み、触れている手を引っ込めて椅子に座り直した。

「冷たいと思った?」とシャロームが言った。

「少し思った」と僕は正直に答えた。「君は雪女じゃないんだね?」

「厳密には違うけれど」シャロームは目を瞑って何度かかぶりを振った。「とりあえず暖かい雪女だと思って」

 僕は頷いた。正直どっちでもいい。僕はもう死んでいるし。

 つまり、これは人間が死ぬ間際に見る穏やかな夢の欠片なんだとこの時感じた。

「オードブルは終わり?」と僕。

「次はスープね」

「オッケイ。次は何を言ってくれるのか楽しみだよ」

「私も、次に何を言おうか楽しみ」シャロームは笑って、それから右手で自分の顎に触れた。考えているのだ。二秒後にシャロームは両手を叩いた。「言い忘れてたけど、私の言うことを全部信じる必要はないからね。信じれば救われるなんて安っぽい言葉は言わない。そんなのって結局全部はあなた次第だもの」

 僕は右手を握って親指を立てた。オッケイという意味のジェスチャだ。それを見てシャロームは何度か頷いた。きっと意味は伝わっただろう。

「それじゃあスープを召し上がれ。あなたはまだ全然死んでない。そもそもあなたは雪山なんかに居ない」

「シャロームの別荘に居るんだよね」僕は笑った。

「あなたの意識はね。あなたの意識だけなら確かに二〇一二年の一二月二四日に雪山で遭難した。ではここで問題です」シャロームは左手の人差し指で一を示した。「今日は何年の何月何日でしょうか?」

「二〇一二年の一二月二四日だろう?」即答した。考えるまでもない。それにシャロームだって自分でそう言った。僕がタイムトラベルを決行したのなら話は別だけど。

「あなたはタイムトラベルを遂行した」

僕の心を読んだみたいにシャロームが笑った。

「意識だけでね。あなたの肉体は二〇〇九年の三月に置いてけぼりくらってるわけ。あなたはあなたの望む世界の末路を見た。経済の崩壊、熱核兵器まで使用した最低最悪の戦争。そして第三次世界大戦。日本の参戦。あなたはあなたの世界の末路を見た。意識だけが独り歩きしてここまで来た。世界を諦めたあなたの意識は雪山を選び、穏やかな気持ちでやってきた。解放されると信じてね。あなたは全部から逃げ出した。どれもこれも見捨ててしまったの。救えたはずの人も、星の未来も。だけど」

 そこでシャロームは話を切り、僕を鋭く見詰めた。いや、突き刺さるような視線じゃないのだけど、僕はナイフで抉(えぐ)られたみたいに痛かった。綺麗すぎて痛かった。まっすぐすぎて痛かった。僕が勝手に責められていると感じた。

 どうしてこんな世の中でこんな澄んだ声を出せるのだろう。どうしてそんな瞳で誰かを見られるのだろう。

 シャロームは――まだ世界が救えると思っているのか?

「本当はそんな事をしたくなかった?」シャロームは首を傾げた。僕の答えを待っているのかもしれない。

 裸電球の光が強まった様な気がした。

「分からない」と僕は答えた。

「でも、私と会ってくれた。ねぇ、覚えていないと思うけれど、あなたは今日、ここで私と会う約束をしていたのよ。あなたの結末を変える為」

「僕の結末を変える為?」

「そう。約束された時に約束された場所で約束された二人が出会った。メインディッシュに移る前に少し休憩しましょ。キャラメルマキアートを飲んでみない?」

 それがどういう飲物なのか僕は知らなかったけれど、だいだいの予想はできる。キャラメルの味がするんだ。きっと。そしてたぶん甘い。


後編に続く










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